Re: ピルビン酸療法について
東京都老人総合研究所の田中雅嗣です。ご質問がありましたII型シトルリン血症(CTLN2)に対するピルビン酸療法の可能性についてお答えします。長文になりますが、お許し下さい。
成人発症II型シトルリン血症と新生児肝炎様肝内胆汁うっ滞症(NICCD)は同じ原因で起こる疾患です。詳しい開設は鹿児島大学生化学教室のページをご覧下さい
(
http://www.kufm.kagoshima-u.ac.jp/~biochem1/theme/citrullinamia/index.html)。
頻度について転記します。
「一般集団で検索したところ、SLC25A13変異遺伝子のヘテロ接合体(保因者)は73人に1人の割合で見つかっており、変異のホモ接合体の頻度は21,000人に1人と計算される。CTLN2の頻度(約10万人に1人)と比べると大きな違いがあり、変異のホモ接合体は、(1) CTLN2を発症する、(2) てんかん、統合失調症などと誤診されている、(3) 健康に過ごす、と考えられる。」
さらに転記します。
「ピーナッツや大豆が異常に好きで、甘いものやアルコールは苦手という特異な食癖を持つことが多い。CTLN2症例は、明らかに男性の方が多い(男性:女性=7:3)ことから、発症には生活習慣やホルモン作用あるいは遺伝素因など内外環境因子の関与が示唆される。肝移植が著効を示す。現在、欠損した蛋白質の機能が分かり、遺伝子をノックアウトしたマウスが作成できたので、原因に即した治療法を開発中である。」
鹿児島大学生化学教室の佐伯武頼名誉教授(現 徳島文理大学)との共同研究として、この遺伝子をノックアウトしたマウスの肝臓を取り出して潅流実験が行われました。ピルビン酸ナトリウムを潅流液に加えると、アンモニアから尿素への合成が正常化しました。以下に投稿中の総説を和訳したものを掲げます。
【シトリン欠損症に対する治療】我々はシトリン欠損症のモデルマウスにおいて肝灌流実験を行いピルビン酸と投与の効果を検証した(J Hepatol 44: 930-938, 2006; 日本特許 2006-036646)。成人発症2型シトルリン血症(CTLN2)はミトコンドリアのアスパラギン酸/グルタミン酸輸送体(AGC)をコードするSLC25A13遺伝子の変異によって生じる。この輸送体はミトコンドリアからアスパラギン酸を運び出す過程を担っているので、細胞質においてアスパラギン酸とシトルリンからアルギニノコハク酸を形成する尿素サイクルの1過程が障害される。この輸送体はリンゴ酸-アスバラギン酸シャトルの一部を形成しているので、その欠損により還元当量(NADH)の細胞質からミトコンドリアへの輸入が障害される。NADHが細胞質において過剰になると、脂肪酸とグリセロールの合成が促進され、その結果、脂肪肝さらには肝硬変が生じる。シトリンノックアウトマウスの肝臓にピルビン酸ナトリウムを灌流すると、アンモニアからの尿素合成が改善された。ピルビン酸の効果は次のように説明される。ピルビン酸はNAD+を供給し、このNAD+はリンゴ酸のオキサロ酢酸への酸化に利用される。アスパラギン酸はグルタミン酸からオキサロ酢酸へのアミノ基転移によって形成される。このようにしてミトコンドリアから細胞質へのアスパラギン酸の運び出し系の欠損による代謝的異常は、ピルビン酸を肝臓に供給することによって回避される。シトリン変異をホモで有する人は、日本における保因者の頻度(400人中6人)から計算すると2万人に1人以上であるので、日本における患者総数は6400人を超えると推定される。シトリン欠損症患者にピルビン酸を投与することによって、肝臓移植が必要とされるような重篤な肝障害を防止できると期待される。
理論的には、ピルビン酸ナトリウム1モル(110 g)が肝臓に供給されると、尿素が1モル(60 g)合成される。一般に、一日あたりに必要な蛋白摂取量は約1 g/kg/dayである。蛋白質の窒素含量は平均16%である。窒素バランスが保たれている時には、0.16 g/kg/dayの窒素が尿に排出される。尿素としては2N/(NH2)2CO = 28/60 であるから、0.16 ÷ 28/60 = 0.34 g/kg/dayである。ピルビン酸ナトリウムの投与量は0.34 ÷ 60/110 = 0.62 g/kg/dayとなる。体重50 kgの成人患者は31 g/dayのピルビン酸ナトリウムを摂取すると、通常の尿素合成量が確保されると推定される。
久留米大学小児科では、ミトコンドリア病の患者さんに0.5 - 1 g/kg/dayのピルビン酸ナトリウムを投与しています。成人発症2型シトルリン血症でも同じくらいの投与量になると予想されます。
ただし、現在までに得られているデータは動物での実験結果に過ぎませんので、成人発症2型シトルリン血症の患者さんにおいて、ピルビン酸ナトリウムが実際に肝臓での尿素合成を高めたり、肝障害を防止したりするかどうかは、まだ不明です。数多くの患者さんに臨床研究に参加していただかないと、科学的な検証はできません。
成人発症2型シトルリン血症の患者さん、あるいは新生児肝炎様肝内胆汁うっ滞症(NICCD)を経験された若年の患者さんにピルビン酸ナトリウムを投与する臨床研究が行われています。質問された方の主治医はこの臨床研究に参加されていると思います。私はどのような投与量が採用されているかについて情報を得ていません。
ピルビン酸ナトリウムの主な副作用は軟便です。しかしコップ一杯(200 mL)の水にピルビン酸ナトリウム3.3 gを溶かして飲めば、お腹にやさしいと思います。
臨床研究に使用しているピルビン酸ナトリウムは、医薬品製造の原料として日本のある会社が供給しているものです。医薬品として厚労省が承認したものではありません。ピルビン酸ナトリウムに不純物が含まれていれば、それによって健康被害が生じる可能性もあります。全ての会社には製造物責任法が適用されます。すなわち、製造物の欠陥により人の生命、身体又は財産に係る被害が生じた場合には、製造業者等に損害賠償の責任が生じます。一方、ピルビン酸ナトリウムを臨床研究として患者に投与する場合には、医師も製造者も健康被害が起こらないと保証することはできません。また実際に健康被害が生じたときに損害賠償をする能力もありません。製造者はできる限り純度の高いピルビン酸ナトリウムを供給するように努めていますが、その製品が医薬品としての基準に達成しているという認証を得ていません。臨床研究の被験者となる場合には、医薬品ではない単なる試薬を自己責任において摂取することを確認していただき、同意書にサインをして頂く必要があります。
製造会社が、厚労省によって承認されていないピルビン酸ナトリウムを製造し、医師がミトコンドリア病の患者で使用したことによって、健康被害が出た場合には、製造会社が、賠償責任を問われることになります。大きな利益を上げられない部門で、そのようなリスクに背負うことは、経営上の大きな負荷です。製造会社がこのリスクを回避する防衛策を講じる可能性があります。すなわち「ピルビン酸ナトリウムを患者に使用するなら、その医師に供給しません。」と、ピルビン酸ナトリウムの供給停止を宣言するかもしれません。これを回避するためには、患者側が製造物責任法に基づく賠償請求権を放棄することを求められるかもしれません。これは会社側の論理で、患者側の立場で考えるべきです。しかし、厚労省が稀少疾患治療薬(orphan drug)として承認するまでは、残念ながら、ピルビン酸ナトリウム粉末の安全性に対する保証はありません。
治験とは、医薬品の製造・輸入承認を厚生労働省に申請する際に提出すべき資料の収集を目的として行われる臨床試験です。治験を開始する前には、動物を使って薬理効果や毒性・薬物動態などの試験を行わなければなりません。一般に、医薬品の開発には最低でも10-20億円の資金と5-10年の年月が必要です。ピルビン酸ナトリウムの医薬品開発に投資しようとする製薬企業は日本には存在しません。従って、ピルビン酸ナトリウムが国内で医薬品として開発される見通しは全く立っていません。
一方、アメリカではEmphycorpという会社が、ピルビン酸ナトリウムを慢性閉塞性肺疾患(COPD)やぜんそくの治療薬として開発しています(
http://www.emphycorp.com/)。5 mMのピルビン酸ナトリウムを含む生理的食塩水を吸入剤として使うのです。これはピルビン酸ナトリウムが有する過酸化水素を消去する作用に注目したものです。
ピルビン酸 + 過酸化水素 → 酢酸 + 二酸化炭素 + 水
過酸化水素は気管支拡張作用有するNO(一酸化窒素)を壊してしまうので、ピルビン酸ナトリウムを気道から投与するとNOが増えて、その結果、気管支が拡張し、肺活量が増えるというデータが提示されています。
アメリカの食品医薬品局(FDA)はEmphycorp社が前臨床試験として十分な動物実験を行ったことを認め、Emphycorp社は第I/II相臨床試験(phase I/II study)を開始しています。私は、Emphycorp社が成人発症2型シトルリン血症やミトコンドリア病に対する治療薬としてピルビン酸ナトリウムを開発するように働きかけたいと考えています。その場合は、ピルビン酸ナトリウムの経口投与や静脈投与の動物実験を始めからやり直す必要があります。それが障害になるかもしれません。FDAが何らかの形でピルビン酸ナトリウムを医薬品として承認する段階になれば、日本でもピルビン酸ナトリウムが稀少疾患治療薬(orphan drug)としての開発への道が拓かれると期待しています。
稀少疾患治療薬の開発を提案するためには、成人発症2型シトルリン血症やミトコンドリア病に対してピルビン酸ナトリウムが有効であるのかどうかを科学的に検証して、英文論文として報告する必要があります。