東京都老人総合研究所の田中雅嗣です。ご心配のことと思います。
ご質問を頂きましてから、長い間にわたりドクター側から無回答で申し訳ありません。ご質問の内容に対して、理解して頂いている以上のケアについて、具体的な対策を提案することが難しい状況です。おそらく、それが臨床のドクターからの回答が遅れている理由と思います。繰り返しになりますが、私は基礎科学者です。アルギニン療法の理論的基礎と、将来のミトコンドリア病治療薬の開発見通しについてここに書いて、お答えの代わりにしたいと考えます。いつも長文で失礼します。
まず、古賀靖敏先生がアルギニン療法をなぜ考え出されたかという、理論的根拠についてご説明します。
(1) MELASの脳卒中様発作時に患者さまの血中のアミノ酸を分析するとアルギニンの濃度が減少していた。
(2) アルギニンは細胞内で一酸化窒素(nitrogen monoxide, NO)作る材料である。
(3) NOは血管を拡張する生理的作用をもつ。
さらに仮説を考えると、
[a] MELASの脳卒中様発作は、脳血管の壁をつくっている平滑筋が一酸化窒素の不足により収縮し、それによって局所の血流が低下している(MELASの血管攣縮説)。
[b] 確かに、MELASの骨格筋生検標本では、骨格筋だけでなく、電子顕微鏡で血管壁の平滑筋にも異常なミトコンドリアが集積しているのが観察され、その部分を光学顕微鏡で見ると埜中征哉先生が名付けられた所見であるSSVが観察されます。[strongly SDH-positive vessel; SDH = succinate dehydrogenase]
[c] MELAS患者さまの上腕で血流を実際に測定すると、刺激を与えても血管が拡張しにくいことが分かった。
[d] そこで、作業仮説が立てられました。血管平滑筋で不足しているアルギニンを補充すれば、NOが作られて、脳血管平滑筋の攣縮が軽減し、脳卒中様発作が治まるはずだ。
[e]久留米大学小児科でMELAS患者さまにアルギニン投与を実施したところ、脳卒中様発作の改善が得られ、その結果が英文論文に掲載された。
こうした背景を踏まえて、急性期の脳卒中様発作に対する薬物療法(アルギニンの点滴静注)の有効性の検証のために、古賀靖敏教授を中心として研究班が構成され、医師主導型治験が開始されました。
同時に、アルギニンの血中濃度が低いMELASの患者さまに、アルギニンを口から飲んでいただき、アルギニン不足を補うことによって、脳卒中様発作の発生が抑制できるかどうかについても、検証する予定であると聞いております。多くのMELAS患者さまのご協力が必要です。しかし、全国のMELASの患者さまやご家族はアルギニンの効果について噂を耳にして、多くの方々が実際にアルギニンを既に服用されています。すでにアルギニンを飲んでいらっしゃる患者さまに対して、アルギニンを飲むことを休止して下さいと申し上げることは、たとえその効果を科学的に検証するためであっても、倫理的に難しいのが現実です。アルギニンの服用を止めたら発作が起こるかもしれないと心配になるからです。このため、アルギニンの経口投与がMELASの脳卒中様発作の発生頻度を統計的に有意に減少させるのかどうか、その科学的な検証はまだ十分できていません。
ミトコンドリア病の中でもMELASは比較的頻度が高い疾患です。確かな遺伝子診断に基づいて、治療効果の検証のために参加協力して頂く方と、参加していただけない方を分けることができます。しかし、同じMELASという診断でも、患者さまごとに、発症年齢や、重症度も異なります。そのような多様性の中で、ある薬物の投与に治療効果があるのかないのかを検証する必要があります。十分な数の患者さまの協力が必要です。それによって、はじめて、統計的手法を使って科学的な結論に達することができます。
MELASにおいて、アルギニンが血管攣縮抑制以外に、細胞のエネルギー状態を改善する効果があるのかどうかも不明です。別の物質を与えて、細胞になんとかエネルギーを供給して細胞に元気を与えることができるかどうか、それは大きな研究課題として残されています。
MELAS以外のミトコンドリア病については、治療効果が科学的に十分に検証された薬はありません。ミトコンドリア病は様々な病因に基づいています。それぞれの病型に有効な薬を見つけていく必要があります。ミトコンドリア病は全体でも頻度の低い疾患であるからこそ、患者・家族・医師が協力してより良い治療法を科学的に見つけていく必要があります。
今後の治療法開発の問題点について書きます。
1. 【安全性の問題】アルギニンは、病気の検査のための薬として厚労省が認め、医療現場で使われてきた実績があります。しかし、将来ミトコンドリア病に対する治療のために開発される化学物質の多くは、医薬品として承認されたものではありません。それが、未知の重い副作用を示す可能性もありますし、全く効果が無いかもしれません。倫理委員会の承認の下に、安全性が確保できない可能性があることを了承して頂いた上で、試験を実施する必要があります。
2.【制御された試験の実施体制】ある化合物がミトコンドリア病に対して有効であるかもしれないという噂が広がり、患者さまがそれぞれの主治医と相談され、十分な科学的検証を経ずに服用を開始してしまうと、もはや検証は不可能になります。コエンザイムQはこの状態です。科学的側面から考えると困った事態です。有効性のない物質を多くの患者が飲み始めると、予想できない副作用や事故が起こる可能性があります。したがって、十分に準備をしてから治療効果の有無を検証する試験を開始する必要があります。
3.【信頼できるバイオマーカーの開発】ミトコンドリア病の患者さまの状態を評価するために有用な生化学的な指標(バイオマーカー)がほとんどありません。例えば、ある薬を飲んだ時に血中乳酸の数値が下がったとしても、しばらく安静を保っていたためだけかもしれません(血中の乳酸・ピルビン酸の値は変動が大きいので、それだけで一喜一憂することは避けた方がよいと思います)。ともかく、血液や尿を調べて身体の状態を知ることができるように、信頼できるバイオマーカーを見つける必要があります。
4.【統一的な臨床的評価体制の構築】薬を飲んだら、臨床的に症状が良くなった、長期間にわたって発作が無くなった、ということを客観的に数字として示すことは重要です。生化学的な指標の数値が良くなっても、それによって臨床的な重症度や経過が改善しなくては意味がありません。臨床的な評価のためには、同じ診断基準を使って全国の臨床医が治療前と治療後で多項目にわたる臨床的な指標を記録する必要があります。多くの患者さまのデータを統計学者が分析してはじめて、最終的な治療効果の判定結果が得られます。
5.【新たな取り組み】東京都老人総合研究所には、研究用のPET施設があります。このPET研究施設における主な研究テーマは、アルツハイマー病の早期診断法の確立とその治療法の開発です。PETはポジトロン・エミッション・トモグラフィー(positron emission tomograpy)の略号です。PETを使うと小さな癌でも見つけることができるため、癌の転移・再発の診断や、癌検診(健康保険適用外)に利用されています。このPET研究施設では、数時間だけ陽電子を放出する放射性物質をミニ・サイクロトロンで作り、色々な物質に放射性のラベルをつけてから血管内に注射します。放射能をカメラで追いかけて、身体の中でブドウ糖やピルビン酸がどのように取り込まれ、利用され、排出されていくか、分析することができます。また別の方法を使えば、身体の中でエネルギーが産生される速度、エネルギーが利用される速度を測定することができます。私たちは、ミトコンドリア病に対する新しい治療法を評価するために、PET施設との共同研究体制を整備しようとしています。ミトコンドリア病に対する治療法の研究に関して倫理委員会の承認が得られましたら、患者さま・ご家族・主治医の先生にご協力を改めてお願いしたいと思います。